「血液型性格関連説」の問題点


心理学者は、血液型性格関連説に否定的なものが多いです。なにムキになって、大人げないとか、中には心理学者がなりふり構わず批判しているのは、タブーだからろくに検討もされないんじゃないのかとか、権威ある学者の無言の圧力に逆らえないとか、あやしげな説まで出てくる始末です。残念ながらそれは違います

心理学者が、絶えず否定論を主張し続けているのは、一つにはその学問的良心のためです。「血液型と性格の間に関係があるのでは」という説は、昭和初期に日本の心理学界内部(古川竹二氏)から出され、盛んに研究対象となった説でした。でも、どうも関係があるという仮説が支持されないので、一度立ち消えになりました。そして戦後、その説を受けた能見正比古氏によって復活し、彼の本は一般に大人気を博しました。

こういう説があるとなれば、実際に検証し、真偽を検討するのは、学者の義務でしょう。そして、その結果が関係説を支持しない、説に根拠があると認められないのですから、その結果を報告することも、学者の義務です。

血液型性格関連説は、データに基づいていると主張されています。これは、心理学研究法と、根底は同じです。そして、データによる支持がこの説には得られないのですから、判断は純粋に科学的なものです。正しい(批判的精神を持った)データ解釈という慣習を一般に広めていくことも、心理学者の社会的使命です。もしデータによる支持が得られていたら、少なからぬ心理学者がそれを発表していたでしょう。なぜなら、それは真実であり、人間の心理と行動の理解に貢献する可能性があり、さらには業績を上げるという学者の個人的利益に結びつくからです。でも、関係があるという仮説は支持されなかったのです。心理学者は、そのことを正直に報告しているだけのことです(心理学者による検討の例はここ)。

もし関連があるんだったら、どこかの研究者がそれをどんどん発表するはずだ(例えば世界中に「心理学者」が何十万人いると思います?強制的な統一見解なんか、作りようがありません)という点は、考察に値するといえるでしょう。この点に関する、血液型の遺伝を研究する生物学研究者の説得力あるコメントはここ


さて、心理学者が、「血液型と性格の関係」の根拠のなさを主張し続けなければならないもう一つの理由、それは、倫理的問題に関連します。

「血液型性格関連説」はおそらく人為的に作り出されたものです。それは、昭和初期の古川説に端を発し、能見説で完成しました。彼がそれを、メディアにのせて大々的に広めました。それは、現在にマスメディアによって日々強化され、すでにわれわれの一つの「現実」となっています。現在、血液型性格関連説は、まず学ばれ(現在、自分一人で一からそれを作り上げた人などいないはずです。まず子供の頃かいつか誰かにはじめて聞き、へえと思い、そしてだんだんとそのような目で人間を見るようになったのです)、そして普段の経験の中で強化されていきます。挙げ句の果てには学校の検定教科書すら、それを強化する一因を担っています。「血液型と性格に関係がないのでは」といったときに、多くの人が「そんなはずはない、実際、そう見える。科学的に根拠がある」と、ほとんど疑問を抱くこともできず、むしろ心理学に感情的に反発してくるのを見るにつけ、そこまでして信じるほどの説かな?と思います。心理学を疑うのを同じくらい、メディアや多くの本を疑ってみてもいいような気もします。

血液型性格判断が、日本で大きな影響をふるいはじめた歴史については、佐藤達哉さんの「血液型性格判断を疑ってみよう!」の中の、血液型カルチャー年表をご覧になるとよいでしょう。

その結果、何が起こったのか。

現代の日本で、血液型性格関連説は、日常の話題や占いや相性判断を飛び越して、社会的に「利用」されるまでに至ったのです。それは「正しく」見えるんだから、使ったっていいだろうというわけです。生まれつきで、後天的努力で変えることのできない特性に基づきさまざまな利用が行われています。でも、心理学者の立場からは、研究の結果無根拠である「決めつけ」が、社会で行われることを、黙って見過ごすわけにはいきません。それは、科学者の道義的責任だからです。

また、「血液型と性格」が、国内で、そして海外でどのように研究され、また「利用」されてきたのかの詳細な歴史については、作家の松田薫さんの以下の本が最も重要な著作といえるでしょう(松田さんは心理学者ではありません。血液型問題に関しては、非常に中立な立場です)。血液型をめぐる誰も知らない「歴史」とは?諸外国で血液型はどのように「利用」されてきたのか?

松田薫 1991 「血液型と性格」の社会史 河出書房新社

あるいは、「疑似科学批判の古典的教科書」とも目される以下の本の、「憎悪を煽る人々−人種差別の「科学的」基礎−」という章が、遺伝的特性、あるいは「血」が精神能力に多大な影響を与えるという「迷信」が世界中でどのような問題を引き起こしたのかの歴史を解説しています。

マーティン・ガードナー(市場泰男訳) 奇妙な論理−だまされやすさの研究− 現代教養文庫(社会思想社)

さらに、ご関心にある向きには、ユネスコの「ヒトゲノムおよび人権に関する世界宣言」をお読みください。そこでは、遺伝情報に基づく人間(起草案段階では、「人間のパーソナリティ」)の分類が決してなされてはならないこと、個々人の独自性と多様性にこそ敬意が払われなくてはならないこと、ゲノム情報は、自然環境や社会環境によって全く異なる表現をとるポテンシャルを持つことがはっきりと明記されています。全部当たり前のことです。たとえ遊び半分であっても、「血液型」だけ例外ではありえません。

 

●職場での利用
例えば、ある医薬品メーカーの社長は、人事異動に血液型を利用するように、実 務レベルでの検討を指示したそうです(AERA94年9月5日号)。 人事異動に際し、人種がどうであるか検討するとか、性別がどうであるか考慮す ることにするとこの社長が言ったとしたら、おそらく大問題となることでしょう。もちろん、現実に、職場での性差別は存在します。でも、それはが問題であることは、すでに多くの人が知り、そのための法律もあります。でも、血液型だったら、あんまり問題にはならない。なんででしょうね。血液型は生まれつき変えられないものなのに、それでその人を判断するなんて、変じゃないですか?その人をちゃんと評価すればいいのに、手抜きです。

実はこのような会社は、実はいくつも存在しました(例えば、朝日新聞85年8月27日、90年11月21日。また特定の血液型の人を募集(遠慮)した求人広告の実態は毎日新聞84年11月10日)。血液型によるプロジェクトチームを作ったりする例があるようです。なぜ、血液型でそんなことが決められてしまうのですか? もはや、楽しい会話の種という域を越えています。でも、「あるよね」「そうだよね」という会話が、このような現象を生む土壌になっていることは間違いありません。

 

●保育現場での利用
血液型別に保育指導を行う保育園が、存在するそうです(メディアの信念強化の例としてもご参照ください)。このような例は他にもあると聞いたことがあります。幼少期の人格がまだ定まらない子供たちを相手に、大人が△型の子供たちはこういう子だからと、枠をはめて教育する。大人たちは、「良いところを伸ばすために」と善意でやっていても、白紙に近い子供たちに身勝手な枠を押しつけ、そこを強調して育てるなんて、変じゃないでしょうか。もしかして、△型の子供を教育で作り上げる実験を行っているのでしょうか。実際、そういう影響はあるかもしれません。これは、個人差を無視した教育以上のものではないですか?

「自己成就予言」という現象があります。実際は存在しないにも関わらず、人々が、「ある」と信じこむ(そしてそれへの対応行動をとる)ことによって、その予言が真実のものになってしまうという現象です。例えば、オイルショック時における、「トイレットペーパー/砂糖」不足などはいい例といえます。「血液型と性格の関連」においても、社会に広まったその信念が、実際に人々をその性格に近づけていくという、信じられない現象が報告されています。

山崎賢治・坂元章 1992 血液型ステレオタイプによる自己成就現象:全国調査の時系列分析2. 日本社会心理学会第33回発表論文集, 342-345.

これは、「血液型性格判断は疑似科学か?」でご紹介した、松井(1991)のデータをさらに長期に再分析したものです。1978年から1988年の10年間のランダムサンプリングデータの時系列分析によって、A型の人間が、実際にA型とされている性格にわずかながら近づきつつある(時間軸と「A型得点」の間にゆるやかではあるが正の傾きが認められる)ということを示したものです(A型以外の血液型に関しては、このような結果は見いだせませんでした)。人が、自分はA型的な性格を持っているというラベル貼りをされる結果、実際にA型的性格に近づいていくという、ある意味で恐ろしいプロセスをこの研究は示しています。要するに、人々の血液型と性格の関係に関する信念が、フィードバックループとして働いている可能性が示唆されています。「血液型と性格の関連」が、このようにますます「作られて」いくのかもしれません。

上記の論文集がお手に入りにくい場合は、それについて解説を加えている以下の文献が比較的書店でも手に入りやすいので、ご参照ください。

池田謙一 1993 社会のイメージの心理学:ぼくらのリアリティはどう形成されるか (セレクション社会心理学:5) サイエンス社

現役の学校の先生、「血液型」に対するコメントはこちら(岩田さん:「あっそうかあ2」)。血液型性格判断の主張者が使うロジックの紹介もあります。

 

●人間関係への影響
血液型は、人間の判断と、相性の評価に、日常的に用いられています。血液型は、外からは見えません。それがわかったからって、やっぱり形には現れない心の内側が見えた気になるのは、単なる錯覚です。でも、相も変わらず、人を生まれつきに型にはめた判断は横行しています。相変わらず結婚の時にも考慮に入れるという人はいますし(お見合いセンターの申し込み葉書には、必ず記入欄がありますね)、△型の人はあんまり好きじゃない、気が合わないといった声も耳にします。「その人と気が合わない」じゃなくて、「△型だからだめ」、なんて、理由の押しつけです。○○出身の人は嫌いだ、○×人はいやだとか言っているのと同じことではないですか。何でその人をそのまま評価しないのでしょう。子どもたちの間で、「あなたとは血液型が違うから気が合わない」などの発言すら飛び出しています。これだけ大人が話題にしていれば、子どもがそのような判断を行うようになるのもまったく不思議ではありません。

どうして、好きこのんで人間を、その人の生まれつきの枠にはめて捉えるのでしょう。○○さんは何とかだ、で十分でしょう。どうして×型だからなんて余計な情報をつけるんですか?判断を正当化する理由が欲しいのでしょうか。4つに分類できる、手軽な理論だし。

 

まあ、本当に心の底から単なる「占い」だと思っているのなら、いいでしょう(でも、星占いみたいに毎日の変動がなく、永遠に予想は同じままなのだから、それは宿命であって「占い」じゃないですね)。占いだろうが超能力だろうが、信じる信じないは、人の好き好きです。そんなことに口を挟む心理学者は大人げないなあと思ってもいいでしょう。

ただし、変な利用を目にし、「お前は△型だからこういうやつだ」という決めつけを見たら、あれあれ、そこまでやっていいのかな、とちょっと立ち止まって思うくらいの余裕は、あってもいいのではないでしょうか。これは、血液型と性格の間に関係があろうがなかろうが、おかしいのです。ちょっと立ち止まって考えてもらうために、心理学者は警鐘を鳴らし続け、そのためにこのページも存在するのです。なぜならこれは、人間をよりよく理解するというよりも、むしろそれを放棄し生まれつきの特性で他人について判断するという手抜き行為であり、○○人はこういう連中だからなどと論じることと、やっている論理の根は全く同じものだからです。

どこかで血液型を目にしたり書いたりしたとき、話題に上ったとき、このことをちょっと思い出してください。

自分が血液型を書くこと、話すことが、根拠のない「社会的現実」を維持するために、どのような貢献をすることになるのか。そこで血液型を書くことに、どんな科学的、倫理的意味があったのか。あなたにそれを思い出していただけるだけで、このページの使命は終わりです。

さらにこの問題にご関心をもたれた方は、以下の文献をご参照くださるといいと思います。

詫摩武俊・佐藤達哉(編) 1994 血液型と性格(現代のエスプリ324) 至文堂
佐藤達哉・渡邊芳之 1996 オール・ザット・血液型 コスモの本