その後の展開−予言の自己成就メカニズム、状況依存パーソナリティについて−


松井(1991)の全国サンプルによるJNNデータバンク分析においては、24項目の「性格」指標のうち、23項目においては、2年おき4回の調査で一貫した有意差が見られなかったこと、唯一の4年間連続して有意差が見られた項目「物ごとにこだわらない」については、どうも賛成率のパターンが一貫して安定していないということが判明しました。

ただ、興味深い点が一つ存在あります。この項目について、A型に関しては、各年一貫して賛成率が低いように思われることです。24項目中たった一つにすぎませんが、これが、血液型と性格における何らかの証拠である可能性も否定はできません。

もっとも、そうは言ってもいくつかの問題点はありそうです。まずは結果の一貫性という点から。「何かを準備するときには準備をして慎重にやる」「物事にけじめをつける」「目標を決めて努力する」などの、「物事にこだわらない」の対立的意味合いを持つ項目については、一貫した差が得られていないこと、また、80年にはAとABの差はほとんど見られないのに、82年にはそのABがトップになり、84年にはOがトップだが、86年になるとそのOとAの差がほとんど見られないことなどです。これでは内部的に一貫した結果の解釈ができません。

次に、大サンプルでの検定は、しばしば無意味な差を検出するということがあります。例をあげましょう。X型とそうでない人間を100人ずつ準備し、観察を行ったとします。

  ○○にあてはまる あてはまらない
X型 35 65
X型でない 31 69

このとき、X型とX型でない人間が、「○○」に当てはまる比率は、35%対31%で、実質的な差はあまりありません。実際χ2乗値は0.362 (df=1) で、全く有意ではないです。しかし、比率をそのままに、単に各セルの人数を10倍するだけで、

  ○○にあてはまる あてはまらない
X型 350 650
X型でない 310 690

χ2乗値は3.618に跳ね上がり、有意性確率は5.7%となります(データが10倍になったら、検定統計量も10倍になり、その結果有意になりやすくなった)。要するに、統計的検定は、全体の分析個体数に依存して大きく上がり、単に数が多いというだけで有意になりやすくなるという特性があるのです。特に、個体を何千人も集めた検定の場合、ほとんどのテストが有意になることがあり、有意性検定はそれ自体は限りなく無意味となります。これは、遺伝統計学など、あらゆる領域に共通する問題です(あるいは、何らかの疑似科学的主張を行いたい、自分を支持する「科学的」根拠が欲しいのであれば、万の単位のデータを集めて分析を行えばよい。どのような分析も必ず「有意」になるでしょう)。その意味で、3000人クラスのデータに対する、松井(1991)の分析は、有意水準5%とかなり甘めの基準であるといえます。

したがって、数多くのサンプルを手にした場合は、検定ではなく、実質的意味の解釈という作業が欠かせません。その観点からデータを読むと、この場合、どれも賛成率は30%中頃に分布しており、A型が低いと言っても、最大の幅でも10%程度の差を見ることしかできません。これをもって、「×型は、多の血液型と比べて、△△という特徴を有している」という主張をすることには、慎重にならざるをえないと思われます。このあたりまでは、もとのページ、あるいは、他の統計関係のページですでに述べていたことの補足です。


それでも、A型が一貫してこの項目について値が低いというのは、何らかの血液型と性格の差の根拠なのかもしれません。

この点について、別の観点から検討を進めたのが、山崎・坂元(1991)の研究と言えます。

山崎賢治・坂元章 1992 血液型ステレオタイプによる自己成就現象:全国調査の時系列分析2. 日本社会心理学会第33回発表論文集, 342-345.

もう一度表を見てみましょう。

「物事にこだわらない」血液型別肯定率
(松井(1994)より作成)

 年度 

  A  

  B  

  O  

  AB  

1980

30.6

37.8

34.3

31.8

1982

33.0

35.6

36.1

39.1

1984

32.4

38.8

39.9

39.5

1986

35.9

45.1

37.1

42.9

この表を見て、もう一つ気がつくことがあるでしょうか。それは、どの血液型においても、ほぼ一貫して、「物事にこだわらない」という項目に賛成する率が上昇していると言うことです。日本人は一般に、「物事にこだわらない」と答えやすくなっているのです。

彼らは、まず、24個の「性格」特性項目について、大学生サンプルを使ってそれをA型に当てはまるか評定させました。これまでの研究から、A型とされる性格と、B型とされる性格には、対称的なステレオタイプの認知構造があることが明らかとなっています。要するに、A型の人と、B型の人は、反対に見られやすいということです(おそらく、文字のイメージからからそういう対立的認知形成がなされたのでしょう)。山崎・坂元は、ここからA型得点を算出しました。なお、「物事にこだわらない」は、最もB型的である(それゆえ)A型的ではないとして、A型得点のマイナス項目となっています。確かに、A型はここだけで見るなら低いです(もっとも、ではB型が一貫して高いかというと、そうではないのだが)。

このA型的得点を使って、松井のデータの倍の期間の11年分の時系列変化の分析が行われました。分析の中身は非常に技術的に込み入っているので、ここでは省略します。その結果はというと、非常に興味深いものでした。前述の通り、「物事にこだわらない」も含めた、いわば「B型的性格」に、一般の人は全体としてはだんだん近づいています。これは、おそらく時代の変化なのでしょう。問題は、この傾きが、血液型ごとに異なっていたのです。すなわち、B型の人の方がより傾きが急という結果が得られました。全体的に言えば、B型は相対的にB型的に、A型は相対的によりA型的になっているということです。

これは、何を意味するのでしょう。血液型による性格との関連が遺伝的特性であるのであれば、そもそも時系列的な変化を受けるのはどういうことであろうか、ということになりますし、しかもそれが均等な変化ではなく、例えばB型は相対的に年々(より)B型的になり、逆にA型が相対的に年々A型的になるというのは、奇妙な感じがします。

山崎・坂元は、この結果を、社会心理学の「予言の自己成就」メカニズムから説明しました。すなわち、幅広く世間に知れ渡ったステレオタイプが、マスメディアやふだんのコミュニケーションを通じて反復されることにより、実際には存在しなかった特性差が、現実に生じてしまう(「みんながそういうから、やっぱりこういう性格なのだ」)という仮説です(これは、前述の松井(1991)も指摘していました)。山崎・坂元はこのほかに、「血液型と性格の間に関係がある可能性は否定できないが、ここで数千のデータを解釈しなければ現れなかった微弱な差を持って、個々人単位に▽型の人は△△型だ、などという主張はできない」こと、また、ここでの「性格」項目が、本当に性格なのか、あるいは単なる認知の歪みなのか、また自己成就現象ついても、性格が変化したのか、認知が変化しただけなのかは断定ができないとしています。

ともかく、言われ続けている間に、性格がその方向に変化してしまうという可能性を示唆するデータ(確実な証拠であるということは全くできませんが)が得られたことは、ある意味で恐ろしいことであるといわざるをえないと思います。


さて、ここで、日本人全体が、年々「物事にこだわらなく」なっているという点について、もう少し考えてみましょう。ここでは、「性格」とはなんなのかという点について、考えていきます。

「性格」とは、ラフに言えば、「行動や、心の動きを引き起こす、人間の内面の安定で一貫的な個人差」のことであると思います。そしてこの個人差は、従来、遺伝的要因や環境的要因によって決定していくと考えられてきました。遺伝か環境かといった論争が存在したことも、それなりに知られていることでしょう。もっとも、遺伝も環境も、しばしば技術的に分離することができません。なぜなら、遺伝的に共通の人間は、環境も共有していることが多いからです。ただ、議論としては「遺伝の影響は否定できないが、それよりも環境の影響の方が大きい」という方向で落ち着いていました(もちろん、強い遺伝的立場をとる学者もいましたが)。

近年では、この「性格」を、幼少期までに形成された比較的固定的な行動規定要因と見なす考え方自体に、世界的に大きな疑問符がつけられつつあります。1960年代に、ミッシェルという研究者によって、強力な批判が展開されはじめました。そこからはじまった「状況依存的パーソナリティ」と呼ばれるそのアプローチは、性格は環境や状況に影響されて形成され、またその変化にともなって性格も変わっていくと考えます。この中で、性格テストの扱いも変化しつつあります。すなわち、性格テストは、本人が持つ傾向と、テスト時点での状況、環境要因の相互作用によって結果が出されるものであり、固定的な何らかの特性を測るものとはいえず、その適用できる範囲は非常に限定されたものにすぎないとされつつあります。「人間はこういうものだ」というある意味で傲慢な決めつけを、心理学自体が放棄しつつあるのです。

世界的に、性格心理学領域も大きな変化をしつつあります。過去、体型による気質の差のようなものに始まり、心理学は人間行動を安定的に説明、予測する内的要因の検討に力を注いできました(そして、人間のことを知りたいというのは、多くの人が望むとことでもあります)。そういった中で、血液型と性格の間には関係があるかもしれない、という心理学的学説も登場しました。一方で、このような説は、民族差を遺伝という観点から「科学的に」基礎づけたいという、優生学的立場の人間が多いに利用した説でもありました。でも、性格自体の複雑さから、現在では、むしろ遺伝にしろ環境にしろ、固定的な性格観はだんだんととられなくなり、むしろ状況との相互作用でダイナミックに変化する性格観が主流となりつつあります。これは、複雑な性格を、決まった枠で捉えるのではなく、むしろ柔軟に捉えようというアプローチであり、また宿命、運命論的ではない、変化する可能性を持った前向きな人間観に根ざすものであるということができるでしょう。ある意味で、学問の健全な方向への変化であると思われます。

性格は、しばしば「性格だからしょうがない」といった、あきらめの言葉として使われることがあります。でも性格のせいにしておく、というのは、消極的なものの見方ではないでしょうか。性格は、実際は、環境と状況に対応してかなり激しく変化するものです。