血液型性格判断は疑似科学か?


●科学的に、血液型と性格の関係があることを立証するためのステップ

血液型と性格の関係を科学的に考えるとき、以下の3段階のステップに分割して検討していくことができます。一つ一つ考えていきましょう。

(1)血液型と性格の間に関係があると知覚できる。あるいは知覚できると多くの人々が思い、
  結果としてそれが世の中に広まっている
(2)血液型と性格の間に何らかの関係があることが、客観的測度によって確かめられる
(3)血液型と性格の間に関係をもたらすメカニズムに仮説が立てられ、テストされる

 

●1−血液型と性格の間に関係があるという知覚

(1)の段階について生じているのは、ご承知の通りです。昭和初期以降、日本ではこのような説が立てられてきましたし、関係があると実際に感じている人も非常に多いようです。私自身にとっては、この段階でもうあまり関係があると感じられないのですが、そのように見えることがあること、またそう見えるという人々の観察に実感がこもっていることは認めます。確かに観察は正しく事実を反映しているのかもしれません。

ただし、そのように見えるということが、血液型と性格の間に関係があるということにはならないということは、関係があると感じている人々にも受け入れやすいのではないか、と思います。

心理学(認知科学)は、われわれの知覚がしばしばいかに当てにならないものか実証してきました。今では、水の入ったコップに棒を差し込んだら、棒が曲がって見えるということは現実とは違うのだということは子供でも知っています。また、「>−−−<」「<−−−>」という二つの図形が持つ意味もたいていの人が知っていることでしょう(どちらが長く見えますか?というものです)。

錯視に興味のある方は、「錯視の会」のページなどをどうぞ。ずいぶんゆがんで見えるものだなあとびっくりすると思います。

こんな単純な図形の判断でもゆがんで知覚されてしまうのですから、人間や社会事象についての、より複雑な知覚判断についてもわれわれはしばしばかなりゆがんだものの見方をしてしまいます。事前の知識や思いこみをもってものを見るのですから、よりそうなるかもしれません。サンフランシスコにある科学と知覚の体験型博物館Exploratoriumを訪れたとき、リスク判断のバイアスの展示にこういうのがありました。「去年一年間に、ハリケーンで亡くなった人と、喘息で亡くなった人はどちらが多いだろうか」。答えは後者です。意外に思うかもしれませんが。これは、われわれの記憶、情報処理のメカニズムに深く関係した問題です。

関心のある方のために:われわれがなぜ知覚判断において間違うのか、それがどうして生じたのかについてわかりやすく論じた良書です。血液型性格判断については5章。適応メカニズムという点から知覚バイアスを論じた7章も興味深い。

沼崎誠・工藤恵理子・北村英哉 1997 誤りから探る心理学 北樹出版

われわれがデータによっていかに間違いやすいか、それがどのような誤信を引き起こしたかに関する、ギロビッチによる以下の本は強くおすすめです。社会心理学、認知科学の入門書としてもどうぞ。書店の心理学コーナーで比較的手に入れやすいと思います。

Gilovich, T. 1991 How We Know What isn't So: The Fallibility of Human Reason in Everyday Life. Free Press.  守一雄・守秀子(訳) 1993 人間この信じやすきもの 新曜社

血液型と性格が関係あるように見えるということも、そういう事実の反映ではなく、認知的なバイアスによってもたらされたものかもしれません。なぜなら、観察者はしばしば、血液型と性格の間には関係があり、A型はこういう性格、B型はこういう性格…という信念(あるいは「理論」)をすでに持ってしまっています。このような眼鏡で観察すれば、そのように見えるかもしれません。なぜなら、関係のある部分だけクローズアップして感じられ、強調的に記銘されやすいからです。

 

●2−観察者の知覚を離れた「客観的」証拠

ですから、段階はステップ2に進みます。個々の人々の「主観」を離れて、血液型と性格の間には確かに一定の関係があるという「客観的」な証拠が得られるでしょうか。

この点に関して、さまざまなデータが取られてきました。でも、どうにも、さまざまな本で言われている、あるいはちまたで信じられているような結果は再現できません(心理学者が行ってきた研究の一例はここにあります)。

なぜなのでしょう。そして、一方でデータに基づく結果があるように見えるのはなぜなのでしょうか。

少し考えるといくつかのことに気がつきます。まず、多くのサンプルに代表性がありません。血液型と性格の本の巻末についているアンケートを何十万集計しようと、何の結論も引き出せません。なぜなら、回答者自体が「信念」を持っているし、そのような信念がない人間が回答するとは思えないからです。また、「血液型と性格に関するアンケート」と銘打った時点で、回答者に心理的なバイアスがかかりますし、血液型をもし性格項目に先行して聞くなら、それだけでも手がかりを回答者に与えます。結果がうまく出るようなサンプルを使っている可能性があるわけです。

さらに、「科学性」を高める(と感じさせる)ために用いられる推測統計の手続きも落第が多いです。母集団、サンプルと帰無仮説について、いいかげんなものが多々見られます。いったい何の確率を計算しているのか不明なものが多く、中には数千、万の単位で有意差を見いだしているものすらあります(分析対象数が多くなればなるほど、統計的検定は無意味になる性質があります)。

重要なのは、データ収集の方法をきちんと守った上で、さらに安定して出てくる結果です(結果の再現性は科学の基本です)。そして、巷でいわれているような観察に符合する、安定した結果は、まともな方法論をとったデータからは見いだせないのです(データ解析の考え方に関する詳細は、「関係がある」と「関係がない」の間をご覧ください。この種のデータにしばしば見られるトリックについては、データを見る:実践をご覧ください)。

そのような試みのほんの一例として、ここに日本で全国規模で行われた、血液型と性格の関係について検討したランダムサンプリング調査を紹介します。松井(1991)による仕事です。日本における一連のデータの中で、もっとも信用できる一つでしょう。これに先立って詫摩と松井(1985)が、能見氏の本から直接取りだした性格判断項目を使って大学生640人に対して検討しましたが、関係があるという結果は得られませんでした。ただ、ここではサンプルに問題が感じられたので、一般を対象にした大規模ランダムサンプルを使ったのです。

詫摩武俊・松井豊 1985 血液型ステレオタイプについて 人文学報(東京都立大学) 172 15-30.

松井豊 1991 血液型による性格の相違に関する統計的検討 東京都立立川短期大学紀要, 24, 51-54.(簡単な解説は、松井豊 1994 分析手法から見た「血液型性格学」 詫摩武俊・佐藤達哉(編) 血液型と性格:その史的展開と現在の問題点 至文堂 に掲載)

データは「JNNデータバンク」(TBS系の調査です)のもので、全国都市部居住の13〜59才の男女を対象にランダムサンプリングをしてデータを集めています(当然のことですが、血液型と性格の関係を調べるために実施された調査ではありません)。松井(1991)の研究では、80〜88年の間の2年おき4回のデータが、血液型項目を使って事後的に分析されました。それぞれ約3100人ずつ、合計で12,418人のデータが分析されています。対象となった(性格)項目は以下の24項目です。学術的な性格判断テストというよりも、一般の血液型別性格判断によく出てくるような項目を用いているようです。例えば、3「先頭に立つのが好き」とか、11「くよくよ心配する」とか、15「何かをするときは準備して慎重にやる」など、あの型やこの型の典型的な項目です(松井, 1994)。

1.誰とでも気軽につきあう
2.目標を決めて努力する
3.先頭に立つのがすき
4.物事にこだわらない
5.気晴らしの仕方を知らない
6.ものごとにけじめをつける
7.冗談を言いよく人を笑わす
8.言い出したら後へ引かない
9.人に言われたことを長く気にかけない
10.友達は多い
11.くよくよ心配する
12.空想にふける
13.人づきあいが苦手
14.家にお客を呼びパーティをするのが好き
15.何かをするときは準備して慎重にやる
16.よくほろりとする
17.気がかわりやすい
18.あきらめがよい
19.しんぼう強い
20.うれしくなるとついはしゃいでします
21.引っ込み思案
22.がまん強いが時には爆発する
23.話をするよりだまって考え込む
24.人を訪問するのにでぶらではかっこうが悪い

結果はどうでしょうか。8年間の4回の調査のそれぞれの分析で、24項目のうちχ2乗の一様性検定で5%水準の「有意差」は3〜4項目で見られたそうです。100回近い検定を繰り返せば、関係が全くなくても偶然に「有意差」が出てくる確率は非常に高くなりますので、いくつあったからどうだ、ということにはなりません。重要なのは、安定して関係がある項目があったかどうかです。

実は、4回の調査を通じて、毎回有意差の出てきた項目は24項目中1つしかありませんでした。結果は安定しているものではなく、23項目は失敗です。

では、この1項目は、血液型と性格の関係を示す安定的な証拠と言えるでしょうか。その項目は、項目4の「物事にこだわらない」でした。では、この項目は血液型と性格の関係を物語るものなのでしょうか。表を見てみましょう(各年の肯定率最大の血液型を[]で囲ってあります)。

「物事にこだわらない」血液型別肯定率
(松井(1994)より作成)

 年度 

  A  

  B  

  O  

  AB  

1980

30.6

[37.8]

34.3

31.8

1982

33.0

35.6

36.1

[39.1]

1984

32.4

38.8

[39.9]

39.5

1986

35.9

[45.1]

37.1

42.9


このように、唯一の安定しているように見えた「物事にこだわらない」ですら、安定している結果とは言えません。なんだかふらふらしています。A型がどこでも少なく見えますが、ある年はそのAとABの差がなく、翌年はABがトップになり、その次はOがトップで、翌年はOとAの差がなくなるといったありさまです。以上の結果では、少なくとも(性格判断や相性を予測する)実用的な血液型と性格の違いがあるようにはどうも見えません。差があるといっても、賛成率はどれも30%中頃に分布しており、幅も10%も変わらないのです。「×型は○○という性格」という言明にはとても耐えません。

この研究の補足と、その後の展開についてはここで論じています(予言の自己成就メカニズムと、状況依存的パーソナリティについて)

ここで、血液型性格判断は、日常ではむしろ、「どうも○○さんと気が合うと思ったら、△型だったからなんだ」というような、後付けのロジックとして用いられていることが多いのではないかと気がつきます。これは、当たったように見えるのです。なぜなら、外れたケースのことはほとんど考慮しないからです。マーフィーの法則が当たって見えるのと同じです。

 

●3−血液型と性格の間の関係のメカニズム

2のステップをクリアしなければ、このようなことを考察する意味はないのですが、2が満たされた、という前提のもとに先に進んで行きましょう。どうして、「血液型と性格の間には、関係がある」のでしょうか。すなわち、

「血液型は○○○なので、性格に関係する」

この間を埋めるロジック(媒介変数)を考えなくてはなりません。そして、それぞれの要因をテストするような仮説を立てて、検証していけばいいのです(ここまでやった研究は、知るところほとんどありません)。2のステップを満たしていない限りやる意味はありませんが、これを詰めないのなら科学にはなりません。いくつか思いつくままに書いていきます。

(1)地域的分布
血液型は、地域的に偏って分布している、あるいは人種的に偏って分布していることがわかっています。そして、国民性、あるいは県民性(あるいは文化)といったものがあることもわれわれは知っています。ですので、血液型は、国民性や県民性の、粗くいい加減な指標である可能性があります。もしそうなら、別に血液型なんて持ってこずとも、出身地や人種を要因と考えればよいだけのことです。真の原因は血液型ではありません。血液型と社会経済的地位に関係があるという主張があるようですが、人種と社会経済的地位にも当然関係があります。そして、人種と血液型も。要因コントロールは行われたのでしょうか。

(2)環境の影響の疑似相関
上のものと関係しますが、血液型は、当然親類縁者で似ます。性格も、親類縁者で似ます。それは、単に、同じ環境で生活しているからである可能性があります。これは、周囲の観察とデータ収集から、血液型と性格に関係があると思いやすい仕組みを提供します。

(3)生理的メカニズム
血液型の型物質が、脳内の化学的プロセスに影響を与えるという見方です。ただ、血液型物質は血液脳関門を越えられないといわれていますので、どうやらこれはアウトです。血液型物質は、脳内の化学的プロセスに影響を与えようがないので、直接は性格の差を生じさせられません。もっとも、血液型を決める物質が、なんらかの作用で脳内の化学物質の割合を変化させる可能性はあるかもしれませんが、そういう話は聞いたことがありません。

(4)遺伝的メカニズム
そうなると、血液型と性格に純粋な関係がある、という立場を維持するためには、何らかの遺伝的メカニズムが血液型と性格の関係をもたらす、と考えるのが、自然であるように思います。血の影響といったとき、大抵はこういうことが想定されているのでしょう。

ここで、「遺伝か環境か」という、しばしば繰り返される論争を思い出します。「黒人のIQが低い(攻撃的である)」のは、遺伝的要因によることが明らかになった、などといった研究結果が報告され大論争になる、といったパターンです。血液型と性格の間の関係について遺伝的メカニズムを仮定する限り、これと同じ立場に立つことになります。性格は遺伝的に決まる(部分がある)、ということですから。

もしそんな関係が存在したとしても、そのようなことを喧伝したり研究したりすることは、私の個人的な趣味には合いません。なぜなら、人がどうにもならない部分で、心理的メカニズムが規定されているということが、何の役に立つのかよくわからないからです。そんなこと、言っても仕方がないではないですか(ありがたいことに、関係があると確信させる証拠はないのですが)。よっぽど「文化」(環境)とその影響について語る方が建設的でしょう。

それでも、遺伝的メカニズムにより性格がある程度決定され、その簡便な指標として4タイプの血液型による判別が有効であるという立場を信じることは可能でしょう。ただ、決定のメカニズムについてはまだまだ不明です。そこまで考察したものもほとんどありません。おそらく、このような説を奉じるものが、「ポップ・サイコロジスト」や占い師であり、専門家ではないこともその要因でしょう。これ以上議論を進めるなら、遺伝学者の協力を仰ぎ、仮説を立てる必要があります。

このような中で、竹内久美子氏が、「小さな悪魔の背中の窪み」(新潮社, 1994)で、ある仮説を立てています。それは、血液型と特定の疾患には密接な関係があり、ある特定の疾患にかかりやすいということが、それに適応的な行動パターンを遺伝的に生み出していったという説のようです。それに則れば、血液型は疾患別適応パターンの間接的な指標に過ぎません。では、特定の疾患にかかりやすいグループの人間が、ある性格を共有しやすいこと、その媒介変数をコントロールすれば、血液型別の効果がなくなることをデータ上で実証する必要があります(でも、血液型と性格に関係があるというデータ自体が、あやしいのですから、媒介モデルを立てても仕方ないですが)。また、血液型が指標とならない疾患についても、同様の関係が見られるのか実証しなければならないでしょう。例えば、遺伝病○○の人は、こういう性格を持ちやすい、などの現象が存在しなくてはなりません(このような検討は、重大な倫理的問題が紛れ込むはずです。もちろん、科学的な真実とそれは別でしょうけれど)。それが満たされなければ、単なる説に終わります。さらに付け加えると、O型が「広く交わる」傾向を持つことの一つの傍証として上げられた、政治家(衆議院議員)の血液型比率でO型が多いということですが、現在ではそういう偏りはないのだそうです。さらに、参議院議員では関係なく、地方首長では逆の結果もあるのだそうです。これでは、科学的態度とはとても呼べません。何だって主張できてしまいます。(もとは能見データのようですが。ちなみに、竹内氏は全数調査で検定をかけているようですが、意味なしです。政治家データについては、明治以来の政治家の出身地の偏りや、相互の縁戚関係による血液型の偏りの強化などの代替説明も可能であると考えられます)。竹内氏の問題点については、「補論」もどうぞ。

 

●心理学者の立場は?

心理学者(特に社会心理学者など)は、ステップ2での性格心理学的な実証がうまくいかないことを理由に、ステップ1に戻りました。すなわち、血液型と性格に客観的関係があるという仮説が実証できないにもかかわらず、多くの人々は血液型と性格の間には関係があると知覚している、これをもたらしているメカニズムはいったいなんだろうか、というものです。これに関して、多くの説が立てられ、検証されています。

一つは、前にも少し触れましたが、人間の持つ「仮説確証バイアス」によるものです。人間は、何らかの仮説(信念)を持っている場合、その仮説に合致するデータのみが重み付けをもって記憶され、合致しないデータは例外として処理されるか、信頼できないとして重み付けが軽くなってしまうことがあるのです。よくこういう会話があるでしょう。「○○さんは△型なのに××な人ねえ」。△型から予測される性格だった場合は「やっぱり」となるのに、そうでない場合は「変だけど」として公平ではない例外処理がされてしまうことがあるのです。

もちろん、このようなメカニズムは、人間が日常でロジックを作り、予測するための重要な武器です。そして、言うまでもなく科学の基盤でもあります。ただ、その一方で同じ機能によりわれわれが間違いやすいこと、そして偏見のとりこになることがあることも知っておく必要があると思うのです。これは、社会的認知研究が提供する重要な知見です。

今では、「血液型と性格」は「血液型ステレオタイプ」として、さまざまな偏見と並び認知社会心理学研究の重要なテーマになっています。形をかえ、この問題は取り組まれ続けているのです。この問題が心理学業界で「タブー」であり、誰もそのようなテーマに全く取り組まないと主張する人々がいます。そんなことはありません。ただ、無邪気に血液型と性格に関係があるという仮説に基づいた研究が発表されることはもはやほとんどありませんし、そこにおける倫理的な問題(「遺伝決定論」という構造)が意識されているという側面はありますが。「アインシュタインが間違っているなど学会では誰も思わず、タブーとなっている」といった、ありがちな疑似物理学研究の主張に似ている側面で興味深いと言えるかもしれません。

心理学的な、血液型性格判断への批判的アプローチについては、福島大学の佐藤さんの「血液型性格判断を疑ってみよう!」が簡潔な分類をつけています。

また、岡山大学の長谷川さんの血液型性格判断資料集にも、心理学的な視点からのさまざまな解説がついています。

 

●血液型性格判断は疑似科学か?

表題に戻りましょう。血液型性格判断は疑似科学なのでしょうか。まず、血液型と性格の関係については、検証可能な仮説が立てられますので、科学理論にはなり得ます(ただし、血液型性格説の性格特性語はあいまいにすぎ、これでは何でも言えてしまいますが。また、データについても、どのようにしてそのような差がでたのか(代替)仮説を立てて検討するという手続きをして欲しいですけれど、そういう例はほとんどないようです)。

血液型性格判断説の主張のあいまいさについての解説、また、状況に応じて解釈の変わる主張者の姿勢については、岩田さんの職場通信その2「あっそうかぁ」をおすすめします。

大豆生田さんの「疑似科学ってなに?」と、「疑似科学の特徴」も、興味深く読めます。また、私の「関係があると関係がないの間:2」も、類似の問題について論じたものです。

疑似科学の定義については、さまざまなものがあるようですが、血液型性格説に関して言えることは、「専門的トレーニングを積んできた心理学者が、これまでに蓄積してきた観察、データを全て無視し、またそれを無効にするような議論が含まれており、同時に理論的考察が貧弱である」ということができるでしょう。この点で、血液型性格判断説は、疑似科学の一特性を含んでいるということができます。データの捏造はないと信じますが、都合の悪いデータの無視、方法論上の欠陥が山積しているにもかかわらず、関係があるという信念だけは揺るがないのです。

もちろん、真実はさらに奥深いところにあり、全ての知見を統合的に解釈し、血液型と性格の関係について実証できることが可能なのかもしれません。ただし、現在のデータ水準でいう限り、血液型と性格の間に、巷でいわれ、また性格判断に(ヒューリスティックとして)利用可能であるような関係があると判断することは、公平に判断すれば、不可能です。

血液型性格関連説が「科学的」でありたいとするなら、既存の知見と正面からぶつかり、自分のデータの取り扱いと解釈に細心の注意を払うことなのではないか、と思います。心理学者は、血液型性格関連説を無視していません。でも、血液型性格関連説の主張者は、心理学者と、50年以上蓄積された知見を無視しているように思います。

これをクリアして科学的探求を行った上で、さらに「遺伝か環境か」の倫理的問題が存在するのです。


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