「関係がある」と「関係がない」の間:2

−血液型と超能力、あるいは心理学欠陥論へのコメント−

別に血液型と超能力の関係を論じるわけではありません(笑)。


もともとの記事では、あまりにも統計的推論に関して詳しく論じすぎたので、話が見えなくなってしまったかもしれません。こういうことです。

「血液型と性格の間に関係がある」ということは、きちんとしたサンプルにのっとれば、それが偶然出てきたものでない(=関係があるだろう)ということは統計学的推論を用いて検討できます。そして、既存の方法論で、いわゆる「血液型と性格の関連」(例:△型は××しやすい)が存在するかどうかを検討することも十分可能だと思われます。心理学の測定のレベルはそんなに低くないし、言われていることは観察判断(対象が持つ観察可能な特性)に基づいているのだから、観察をデータにおとすことも可能でしょう。

しかし、「血液型と性格の間に関係がない」ということの直接の証明はできません。それは、科学的探求の構造上の問題です。何が起こったって、「でも何かあるかもしれない」という立場は、論理的に可能ではあります。

このことは、超能力(超心理学)をめぐる科学的検討と非常によく似ています。

科学者には、超能力がない、という直接証明を行うことはできません。一方で、「超能力がある」とデータを持って主張することは可能です。従って、超能力があることが実証的に示された、というデータが真実かどうか検討するという形になります。

結果はどうだったか。「超能力が存在する」と主張するデータは、よく調べてみるとほとんどが全てが安定的にその存在を示せるものでないか、何らかのデータ取得上の欠陥があり、さらには捏造なども存在するものでした。

それを吟味した結果、超能力が存在すると主張するデータには欠陥があり、「いわゆる超能力」は存在しない、という結論を多くの科学者たちが下したのです。

CSICOP(超常現象の主張に対する科学的調査委員会)という団体があります。超常現象を主張するもののデータを、科学的に検討しようとする科学者中心の団体です。この中には何人もの第一線の心理学者、認知科学者も参加し、データの検討を行っています。

「血液型と性格の関係」も同じです。それを主張するデータ、また仮にその立場に立ってみた心理学者が集めたデータが、その主張を支持するものかどうかの詳細な検討が行われました。多くのものは、そもそもデータとして不完全で、仮説を検討するための必要な情報が含まれていませんでした。そして、まともな方法論をとったデータは、相互に矛盾していたり、ほぼ連戦連敗と言えるものでした。

この結果をもって、多くの心理学者は、「血液型と性格の間に、言われているような関係を見いだす証拠は得られていない、「いわゆる血液型と性格の関連」は存在しない」という判断を下したのです。これは、思いこみによる偏った断定ではなく、むしろ常識的な結論といえます。

データの検証は、地道な作業です。そして、「超能力」「血液型」に見られるような批判的な検討は、科学的手続きとしてはごく当たり前のことです。あらゆる科学者は、「○○と××に関係がある」という説(多くの普通の科学的な仮説はこういう形をしています)を立ててデータを集めた場合、そのデータは自分自身、そして他の科学者によって、あらゆる角度から批判的、攻撃的に検討され、あら探しをされます。例外なく、まずは「なんか間違っているんじゃないか」、という観点から見られるのです。そのような批判的コメントに十分な反論を行い耐え抜いたものだけが、ようやく科学的な説として確立します。ここに至るまでにそれに耐えきれずに沈んでいった説など、それこそ星の数ほどあることでしょう。でも、確実な知識を積み上げるためには当然の地道な作業ですし、それを軽視することはできません。いきなり出てきたすごい学説が、一気に世界を一転させるということは、残念ながらほとんどありませんし、そんなことがあったらむしろ大変です。相対性理論だって、このような論争と現在まで続く実証に耐え抜いてはじめて確立したのです。確立したさまざまな心理学的学説も同じです。

ただし、心理学、特に社会事象に関する科学的検討の限界は、それが時代によって規定され変化しうることと言えます。ただし、これが科学的検討の無意味さを主張する根拠にはなりません。「現在」を鋭く切り取ることも、重要な仕事の一つだからです。

そして、「超能力」も「血液型」も、全く同じ科学的検証手続きを適用されただけのことです。ただ、このような主張は、しばしば専門家、科学者でないところから出てくることが多いので、いきおい「専門家がしろうとを総攻撃」に見えます。特に、心の問題に関しては、一般の人も仮説を立てやすいこと(現代科学は理解不能だが、心については毎日経験しているから熟知しているという思いがあるでしょう)から、ことさらにそう見えます。でも、別に特別扱いがなされたわけではなく、通常の科学仮説と全く同列の次元での検討(徹底的な相互の批判的検証)が行われただけのことですし、むしろ手を抜かないフェアなものだったともいえるでしょう。そもそも、「超能力」も「血液型」も、科学者の方からあるんじゃないかなとする検討も多かったのです。さらに、科学者は、データの吟味に際しては中立な態度をとることにある程度なれています。

現代超心理学の始祖は、まっとうなトレーニングをうけた心理学者でした。「血液型」も、昭和初期に日本の心理学者、古川竹二が論じた説が出発点です。彼が、学者として自説をデータとともに「心理学研究」「Journal of Social Psychology」誌などに提出し、科学的論争の土台にのせたということは、彼の科学者としての功績です。それが、論争の中で説得力を失っていったにしても、彼の科学的態度は評価されるべきものです。さらに言うと、超能力があるないといった論争も、Psychological Bulletinなど、現代の権威ある心理学研究雑誌に掲載されることがあります。

さらに、「心の問題、あるいは社会の問題に「科学的」に踏み込むのは意味がなく無駄だ」という根強い信念も存在するようです。三井(1995)が、レーガン政権時の社会科学に対するNSF予算カット、またWalster, Berscheidらの、"Love Research"に対する批判運動の問題の背景に存在した"anti-intellectualism (anti social science)"について論じています。社会心理学者による非常に興味深い本です。心理学の「貢献」について考えているひとにもどうぞ。

三井宏隆 1995 レクチャー「社会心理学」I 垣内出版

このあたりから、批判一辺倒になる(しか構造上ない)科学への不満が出てきます。でも、確実な知識を積み立てるために不可欠な「批判」を受け入れられないのなら、そもそもデータに基づく主張をする資格などない甘えですが。あげくの果てには科学(心理学)の測定やデータに欠陥があるから、「超能力があること」や「血液型と性格の間に関係があること」が検出できないんだという説まで出てきてしまいます。あれ、でも、これは論点がすりかわっているのです。なぜなら、そのようなデータは、「ある」と主張する人自身が提出しなければいけないデータだからです。そして、批判に耐えられるデータを提出することも、「ある」と主張したい人々の責任のはずです。超能力があるというデータを出せないのは「科学者が悪い」のでしょうか。データ上の確実な根拠に基づかないのに、証拠があると主張する人にむしろ問題があるのではないでしょうか。でも、「超能力はあるに違いない」「血液型と性格の間に関連はあるに違いない」という出発点、動かしがたい信念からはじまっていることが多いので、こういうロジックになってしまいます。でも、根拠が提示できないものを、あると主張することはできないし、根拠が得られないうちは「(現在のところは)ない、証拠がない」とするのが、筋が通り、かつ謙虚な立場ではないかと思います(少なくとも致命的な誤りをおかす可能性は減ります)。

結局のところ、「何かがない」という科学的証明が原理的に不可能なことが、終わりのない論争を引き起こします。一方で「超能力がある」「血液型と性格の関係がある」という話は、一般受けするので、マスコミにのってどんどん強化され、「真実」「検討抜きの動かしがたい信念」となって定着していきます。もはや、これはどうにもならないことかもしれません。また、「信じたい」のなら、それは個人の信念の問題なので口を挟むことでもありません。

ただ、言えることが二つあります。

ただ、データを批判的に眺め、そこから真実を見抜くという技術は、現代の誰もが身につけておく方がよいものです。それは、データを持った主張者のトリックにやられてしまわないためにも重要ですし、自らが何かの主張をする場合、データ上の穴から主張自体の説得力が失われてしまうことを避けるためにも重要です。データは、どんな主張をするかに関わらず、当然の基盤、共通の言語ですから。

われわれがデータによっていかに間違いやすいか、それがどのような誤信を引き起こしたかに関する、ギロビッチによる以下の本は強くおすすめです。社会心理学、認知科学の入門書としてもどうぞ。書店の心理学コーナーで比較的手に入れやすいと思います。

Gilovich, T. 1991 How We Know What isn't So: The Fallibility of Human Reason in Everyday Life. Free Press.  守一雄・守秀子(訳) 1993 人間この信じやすきもの 新曜社

さらに、「血液型と性格」に関しては、それがさまざまな社会的判断と意思決定の材料として用いられることがある、ということの問題点は、関係があろうがなかろうが存在するということです。生まれつきの特性で何かが決めつけ的に判断されるということは、それがどんな特性であろうが、変なことであるように思います。そもそも「血液型と性格の関連」は占いではありません。それは、星占いのように刻々と変化するものではなく、ずっと不変なものなのですから、占いというよりもむしろ宿命です(もっとも、骨髄移植により、血液型は変化しうるけれど。でも、それで性格は変わらないよなあ…)。「血液型性格判断」の問題点についてはここもご覧ください。

ざまざまな領域で生じている「血液型現象」については、二人の「血液型ウオッチャー」心理学者による以下の本が最近のものとしていいと思います。「血液型」をめぐる心理学者側の最新の著作です。

佐藤達哉・渡邊芳之 1996 オール・ザット・血液型 コスモの本


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